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安曇野・安曇野文芸・古代 Azumino FUNE

安曇野エトセトラ

安曇野 エトセトラ

■松川村「弥勒菩薩半跏像」-観松院のお宝-
■魏石鬼岩窟(ぎしきのいわや)と「鬼の涙」
■長峰山「歴史の塔」過去・現在・未来

松川村「弥勒菩薩半跏像」-観松院のお宝- 2021.6.25

 北安曇郡松川村には長野県では最古といわれる仏像がある。それは曹洞宗金福山観松院の重要文化財である銅像菩薩半跏像(金銅仏)である。
 この銅像は6世紀後半から7世紀前半、朝鮮三国時代の新羅にて製作された菩薩半跏像と言われている。日本ではまだ仏教が普及していない頃で、この渡来した金銅仏の像高は25.8cmと小さい。松川村のパンフレットの写真では銅像が緑色系で印刷されているが、実物は火災の厄にあったらしく全体に黒焦茶である。製作された当時は鍍金されていたから眩いばかりの金色に輝いていたはずだ。

     銅像菩薩半跏像01

 この菩薩半跏像は重要文化財でもあり一般に拝観することはできない。拝観するには松川村教育委員会に申し込みの手続きをして、檀家さんの立ち合いが必要である。
 観松院に設置された収蔵庫の扉が開かれ、初めて拝観した時のなんとも言えない驚きは今でも忘れられない。瘦身の小さな仏像が榻座に座り右足を組んで思惟している姿は全体にバランスがとれている。頭上には細かな装飾が施された宝冠を載せ、腰から足元に広がる裳の曲線が美しく立体的に広がり安定感がある。左手を、組んだ右脚の足首に伏せて置き、右手は施無畏の形で頬の横に寄せている。
 しかし、この右手は肘から上は喪失していたのを昭和35年ごろ木材で後補して今の形になっている。手を挙げたような形にはどうも違和感を覚える。当初は如意輪観音とみられていたが、現在は弥勒菩薩と考えられている。個人的には弥勒菩薩半跏思惟像として右手を正面に向けるのではなく、頬に寄り添うような瞑想をしている手にしてほしかった。顔の表情はまさにアルカイックスマイル!目を伏せ気味にし口元はわずかに口角をあげ微笑んでいる。この菩薩半跏像は約1400年にわたり何を見てきたのだろうか。

観松院看板

 観松院にある案内看板の出だしには「総高30.2㎝の本像は、7世紀前半に朝鮮半島(おそらく新羅)において製作された金銅仏であるが、中部・関東以北における最古の仏像として、またその高度な製作技法と相まって、きわめて高い評価を受けている。…」と始まっており、新羅の渡来仏とみている。
 パンフにも制作は新羅とあり「※6世紀末頃 百済から伝来との説もある」と注意書きが書かれている。他を調べとてみると「頂上に見られる日月の意匠を表した大ぶりな宝冠や両肩に意匠化した垂髪などから、百済仏に多くみられる渡来系金銅仏の特色を伺わせている」とある。
 6世紀末から7世紀前半、朝鮮三国時代に作られた金銅仏がどのような経路を辿ったのかわからないが、最終地はここ北安曇郡松川村の観松院に安置されている。信濃の古代安曇野は朝鮮半島をも巻き込んだ特別な文化圏が築かれていたのではないか。

 先日、長野県立美術館で法隆寺釈迦三尊像のスーパークローンを見てきた。三尊像は見事に鍍金され光輝き、古の姿に蘇っていたのだ。
 そこで、松川村の菩薩半跏像も過去に遡り想像してCG再現してみた。
       銅像菩薩半跏像02CG

 なぜ安曇野に弥勒菩薩半跏像はあるのだろうか…。
日本書紀の仏教伝来にあたる部分を探ると「552(欽明天皇13)年に百済の正明王が釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献上した」とある。この時に日本に仏教が伝わったとされるが、今ではもっと前から伝わっていたとする説が正しいだろう。大和朝廷が中心となり仏教が全国に広まったと思っていたが、この菩薩半跏像は大和を経由しない日本海側から渡来してきたとも考えられる。

 新潟県妙高市の関山神社には銅像菩薩立像が秘仏として祀られている。この像も悲しいことに何回か火災にあって手足などが損失している。もとは銅像鍍金像であったとのこと。ふっくらとした顔をよく見ると、どことなく松川村の弥勒菩薩半跏像の微笑みによく似ているではないか。まるで同じ工房で作られたかのように思わせられる。なぜ新潟の妙高山麓にある神社に似たような銅像菩薩立像があるのか、これもまた疑問が湧いてきた。近くには妙高山・焼山を源流とする関川(一級河川)があり上越の日本海側に流れている。海人族が船を使い渡来人を連れて来て一緒に持ち込まれたのだろうか。

銅像菩薩立像01銅像菩薩立像02
 ※上記、新潟県立生涯学習推進センター関山神社HPより

今は鍍金も喪失しているが、CG加工すると古はこんな輝きを放っていたのだろう。松川村の菩薩半跏像と並べてみる。

銅像菩薩立像03 CG 銅像菩薩半跏像03 CG

 目の上をよく見ると眉に線刻が彫られている。観松院の菩薩半跏像と表現方法が似ているではないか!たぶんこの銅像も新羅からの渡来仏と思われる。
 もしも上の銅像が同じ工房で作られた金銅仏だと考えたとき、いろいろな推測が頭をよぎった。二つの銅像を見て感じるのは貴族社会の風雅さを漂わせる装飾の華やかさである。百済の像も装飾が美しいのだが何かが違う。根拠があるわけではないが、百済像とは似ていないと感じる。

 三国時代の朝鮮情勢を考えた時に、金銅仏などを作る工房は常に戦争の影響を受けていただろう。例えば百済の金銅仏工房が新羅に侵略されたとき工房も滅びるのか、逃げるのか?それとも新羅を新たな依頼主として金銅仏を作るのか?
依頼主が変わり、新羅の金銅仏を作る事となった場合、今までと全く違うものが出来るとは限らない。しかし、新たな依頼主から百済より良い銅像が要求され、製作者は微妙な違いを刻むはずだ。

銅像菩薩半跏像04銅像菩薩立像04

 朝鮮三国時代の混乱を統一したのは新羅である。新羅と唐の連合軍は大和朝廷と関係深い百済を660年に滅ぼし、高句麗を668年に滅亡させて半島を統一した。そこには新羅の花郎(ファラン)という若者組織が影響したと考える。花郎とは貴族の若者たちの華麗なる社交クラブで心身ともに学び、戦時となれば戦士団として戦う人材育成のシステムである。新羅が仏教を受け入れたのは6世紀になってからで百済より1世紀以上遅い。新羅は護国仏教とし国家意識の高揚に取り込み、国力発奮の力としたのだろう。花郎の若者たちは弥勒菩薩を篤く信仰し、自らを仏の化身と思わせるほどの特別な菩薩だったようだ。

朝鮮半島七世紀略図

 推測として、観松院に安置されている弥勒菩薩半跏像は新羅から渡来した花郎出身者の念持仏だったのかもしれない。新羅渡来人は日本海側から信濃へ入り込んだと考えられないだろうか。それとも、戦争難民として朝鮮半島から逃れてきた人々の中に、銅像を持ち込んだ者がいたのかもしれない。
 古代安曇野は謎に包まれた不思議なエリア。もしも菩薩半跏像の右手が見つかれば、少しは謎を解く鍵になるかもしれない……


魏石鬼岩窟(ぎしきのいわや)と「鬼の涙」  2021.2.1

安曇野に伝わる 八面大王伝説。 「昔、八面大王という鬼が中房山にいて盗賊たちと町に出ては民家を焼き払うなど人々を困らせていた。それに手を焼いていた地元の役人が都に悪い鬼を退治してほしいと願い出て、朝廷より鬼討伐の命令が下る。そして坂上田村麻呂将軍が軍勢を引き連れて八面大王を討ち取る。八面大王は不思議な力をもっていたので、その霊力で蘇らないように遺体を切断して「耳」「首」「胴体」「足」を各地に埋めた。」
(といった大体の内容である。どうして切断したのに「腕」とか「手」がないのか?胴体と手はそのまま? 上田に「手塚」という地区があり塩焼王?が坂上田村麻呂に討伐され切断した両手を塚に埋葬された話がある。それが王子塚だという。もしも安曇野との繋がりがあれば、切断した八面大王の腕かもしれないなどと妄想を膨らませる。塩焼王がなぜ信濃で討伐されたのか?謎……)

 おおまかな話の内容ではあるが他にも、「鬼は悪者ではなく民を助けるため役人に逆らって逆賊の汚名を着せられ討伐された」とか、「八人の首領が集まって盗賊を働いた」とか、「鬼は不死身で山鳥の三十三節の尾羽で作った矢でないと倒せない」とか色々な話がある。それはこの八面大王が誰なのか?何をしたのか?いつの話でどうして殺されたのか真実がまったくの謎だからである。恐ろしい鬼がいて、それを坂上田村麻呂によって退治するといった話は他の地域にもある。
 その八面大王が立てこもったと言われているのが穂高有明宮城の魏石鬼岩窟。岩窟は大きな花崗岩で組み立てられた横穴式石室の古墳で、今は鉄の扉で閉ざされている。

魏石鬼岩窟01 魏石鬼岩窟02
魏石鬼岩窟 正面(左)・右上より(右)

 岩の横にある道しるべは右方向が塗りつぶされていた。たぶん「足跡の岩」という文字… 道しるべの先には小さな沢があり、その奥に見える巨大な岩の塊が「足跡の岩」だろうか。近づいて見ると岩には複数の足跡らしき溝があり、全体を見ると岩が裂けて顔のようにも見える。岩のあちらこちらに抉られた大小様々な足跡は自然にできたとしても数が多くて不自然に感じるのだ。八面大王はこの岩の前で何かの儀式を執り行っていたのではないか?もしくは大王がここで殺されたのか?だから儀式ー魏石鬼。謎が謎を呼ぶ空間に引き寄せられ、正面に立ち止まって見上げると岩が涙を流しているように見えた。足跡と言うには多くの疑問が生じる。もし言い換えるならば鬼の涙でどうだろう。  魏石鬼岩窟の周りは止め山になっており、管理者がビニール紐を巡らせて「入山一切禁止」の注意書が貼られている。クマ出没の看板もあり訪れる人を近づけさせない雰囲気が漂っている。鬼の涙は何を物語っているのだろうか。大きな謎である。

鬼の涙01
鬼の涙

長峰山 「歴史の塔」 過去・現在・未来 2021.1.25

 長峰山モニュメント01

 前から明科の長峰山山頂にある鉄の巨人が気になっていた。
先日のMGプレスの記事によると高さ約10m、幅約5mの鉄製のモニュメントで下の茶の部分は「過去」、真ん中の緑は「現在」、上の銀は「未来」を示しているとのこと。形・色には意味があり詳細はMGプレスの記事に書かれている。

 この山頂には展望台があり遠くは北アルプス、眼下には安曇野を見渡せる。
過去は過去でも、はるか大昔の景色はどうだったのだろうか?
縄文人と弥生人がまだ行きかう古代、ここに湖は存在していたのか?
明科は高瀬川・穂高川・万水川・犀川が集まるところ。北アルプスの山地に土砂降りの雨が降れば、その雨水は槍ヶ岳で分かれてもここで合流するのである。地下に滲みた水が常に湧き出る安曇野わさび田湧水群もある。ごつごつした今の河川敷を見る限り想像がつかない のだが…
想像してみた。

 仮想古代安曇湖

※1970年5月12日、川端康成・井上靖・東山魁夷はここから北アルプス、安曇野を眺めている。残雪残る5月の若葉まぶしいこの時期に訪れ、とても満足されたことでしょう。

安曇野 舟